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生命が顕在化した状態を「生」とし、潜在化した状態を「死」とし、 その生死が無限に持続しているのが、生命そのものなのです。 生を顕在化、死を潜在化とする仏法の究極の哲理は、悠久偉大な生命をみていて、 その生と死は不二であると説いているのです。 生を働かせているものは妙なる力であり、 潜在化した生命は、やがて縁に触れて顕在化し、生を営みます。 生は静かに退き、死へとおもむき、 その潜在化は新しいエネルギーを蓄えつつ、次の生を待つのです。 生は やがて死におもむき、潜在化した生命は、宇宙生命の力を得て、 生への飛翔を待つのです。
仏は如来の言葉を信じて理解せよと述べ、
如来は阿耨多羅三藐三菩提(仏の悟り)を得てから無量無辺百千万億那由他を経ていて、
この娑婆世界で説法教化し、
他の百千万億那由他阿僧祇の国においても衆生を導いてきたのです。
衆生が私のところに来れば、仏眼でその信など機根の利鈍を観て、
種々の方便で微妙の法を説き、歓喜させたのです。
如来の経典は、衆生を救い出すためのものなのです。
如来は如実に三界の姿を知見し、生死に区別はないのを知っています。
智慧があり聡明で、薬の調合のすぐれ、様々な病を治す良医に、
多くの子息がいたとします。
良医が他の国に行っているときに、子供たちが、
毒薬を飲んでしまい苦しみ悶え、地を転げまわっています。
その時にその父が戻り、家に帰ってきます。毒を飲んだ子供たちは、
正気を失ってしまった者と、失っていない者がいました。父を見て、
皆大いに喜び、ひざまづいて拝み問います。「よく無事に帰ってこられました。
私たちは愚かで誤って毒薬を服してしまいました。お願いですから治療をして頂き
たいのです」
子供たちが苦悩をすることを見た父は、さまざまな処方によって好きな薬草の色、香、味が
具わったものを求めて調合し、子に与えて飲ませようと、このように言います。
「この大良薬は色、香、味もことごとく具わったている。あなたたちはこれを飲みなさい。
すぐに苦悩が除かれ、すべての病はなくなるだろうから」
これらの子供たちの中で正気を失わずにいた者は、
これを飲み、病はことごとく除かれますが、その他の正気を失ってしまっている者は
父が来たのを見て喜び、ひさまづいて病を治してほしいと求めるのですが、
その薬を飲もうとしません。なぜなら、毒気が深く入って本心を失ってしまっているために、
この好ましい色と香ある薬を良いものではないと思えたからなのです。
父はこのように思います。「このかわいそうな子供たちよ、毒が入り、
心が顛倒してしまっている。私を見て喜んで治療を求めているが、
このような良い薬を与えても飲もうとしない。今こそ方便でこの薬を飲ませよう」
そして、このように言います。
「おまえたちよ、よく聞くのですよ。私は老衰し死ぬ時がやってきているのです。
この良薬を置いておくから飲みなさい」
このように教え終えてから他国に行き、使いを遣わし告げます。
「あななたちのお父さんは死んでしまった」。
この時、子供たちは父が亡くなったと聞き、心は大いに憂悩し、このように思います。
「もし、父がいたらば私たちを慈しみ憐れみ、救い護ってくださるでしょう。
今、私を捨て遠く他国で亡くなってしまった。そういえばもう孤児となってしまい頼れるものもいない」
常に悲しみの感情を懐くうち、心はついに覚めて悟り、この薬の色、香、味がよいことを知り、
これを服用すると毒による病がすべて癒えたのです。父は子がことごとく癒されたと聞き、
戻って彼らの前に再び現れたのでした。
「諸の善男子よ、これをどう思うだろうか。この良医の虚妄の罪をあげることができるだろうか」
「わたしも成仏して以来、
無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫が経っているのですが、
衆生のために方便力で『まさに滅度するだろう』と言うのです。
その時世尊は、重ねてこの意味を宣べようと、偈を説いてこのように言います。
私が仏を得て以来、これまで経過した多くの劫の数は無量百千万億載阿僧祗になる。
常に法を説いて無数億の衆生を教化し、仏道に入らせてきた。
このようにして数限りない劫を経てきているのだ。
衆生を救おうとする故に、方便で捏槃の姿を現しますが、実は入滅してはいないのだ。
常にここに住して法を説いているのだ。
私は常にここにあるけれども、諸の神通力により顛倒した衆生には見えなくしているのだ。
衆生が私の滅度を見て、いたるところに遺骨を供養し、皆が恋慕を懐いて渇仰する心を生じさせ、
衆生は既に信伏し質直で心が柔軟になると、一心に仏を見ようと自らの命も惜しまないようになる。
その時に私と僧たちは共に霊鷲山に現れるのだ。そして衆生にこのように語る。
「私は常に存在しており、滅することはないのだ」
方便の力で滅、不滅があるように現わしているのだ。他国の衆生で恭敬し信じ喜ぶ者があるのならば、
私はその中においても無上の法を説くのだ。あなた方はこれを聞かずに、ただ私が滅度したと思うのだ。
私には多くの衆生が苦しみの海に溺れているのが見える。ゆえに姿を現さないことで、
仏を渇仰する心を生じさせ、
その心が恋い慕うようになったところで、私は姿を現し法を説くのだ。
神通力とはこのようなものなので、阿僧祇劫において、
常に霊鷲山や他のさまざまな場所に住しているのだ。
衆生が「劫が尽き大火に焼かれる」と思う時も、
宝の樹には花や果実が多くあり、衆生が遊楽できる所なのだ。
諸天が天鼓を打ち、常に多くの妓楽を奏で、
曼陀羅華を雨のように降らせて、仏や大衆に散らしているのだ。
私の浄土は壊れることはないけれども、衆生は「焼け尽くされ、
不安や恐れなど多くの苦悩が、いたるところに充満している」と見るのだ。
この様々な罪がある衆生は、悪業の因縁により、
阿僧祇劫を過ぎても、三宝の名を聞くことがないのだ。
多くの功徳があるものを修め、柔和で質直な者は
皆、わが身がここにあって法を説いているのを見るのだ。
ある時はこの衆生のために仏の寿命は無量であると説き、
長い時を経て、ようやく仏を見ることができた者には、仏に会うことは難しいと説くのだ。
私の智慧の力とはこのようなものなのだ。智慧の光は無量に照らし、
寿命は無数劫の長い間、業を修行して得られたものなのだ。
医者が善い方便で狂った子を治そうとするために、
実際は生きているのに死んだと言ったように、
私も世の父であり、苦しむものに自ら気ずきを得てもらうために、滅すると言ったのだ。
常に私を見ていると、奢り自分勝手な心を生じ、
勝手気ままに五欲に執着し、悪道に堕ちてしまうのだ。
私は常に、衆生が無上道に入り仏心を成就できるように、
種々の法を説くのだ。
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